不動産売買の現場から
福岡市総合図書館は「スゴイ」。
横山です。昨日調べたい事があり福岡市総合図書館へ行きました。
私は初めて行きましたが建物の大きさ、広さ、内部の造り、駐車場の二時間
無料など驚きましたが一番感動したのが職員の方の親切な事でした。
古い地図を探しに行ったのですがそれも昭和三十年代後半なんですが
職員の方が一緒に手引書等出して調べて頂きました。その親切なこととても
有難いものでした。小さい図面を見る為の大きなレンズを「どうぞ」と
出して、目印の「しおり」までも貸して頂きました。又、利用者の多い事も又、
驚きでした。仕事が無くなればお弁当を持って家内と二人、バスのパスカードを
握り図書館通いもいいかなと思ったものでした。職員の方に大変「感謝」です。
幻のタクシー?!
こんにちは 三好不動産の長谷です。
突然ですが、パンダタクシーって知ってます?
巷では幻のタクシーと言われていて、台数が
少ないらしく、見ると良い事があるとか言われている
みたいです。この前、家族で食事のあとタクシー
止めようと手を上げたら、このパンダタクシーさん
でした。
なんと初乗り料金290円です!
我が家まで払った運賃は370円(ワンメーター)です。
財布に穴が開いているとかいなと思うくらい
諭吉さんが脱走しがちなこの季節、パンダマークの
タクシー探してみませんか?
むかしのはなし3です。
売買営業部の渋田です。
中休みがありましたが、昭和一桁の話を続けます。
小さい頃の記憶なので記憶違いが有るかと思いますが
ご了承下さい。
さて、大日本帝国砲艦「嵯峨」に守られていた帝国臣民は
何をしていたのかは、戦後就職して東京で当時の小父さん
小母さんに10数年ぶりにお会いして、当時の広東の役割
が解りました。その方々は、外務省の総領事、横浜正金銀行
支店長(戦前日本唯一の外国為替銀行・後の東京銀行)、
台湾銀行支店長(当時台湾の日銀的存在で、紙幣発行銀行でした)、三井物産支店長、王子製紙支店長、日本郵船支店長などで
東京では、日本リーダースダイジェスト社長、東洋レーヨン社長など錚々たる方々になっておられました。
でも、人口はおそらく僅かだったと思われます。というのは、
唯一の学校「広東日本人小学校」は、2学年1教室で先生も
3人だったと記憶してます。勿論その中には「台湾人」も大日本帝国臣民として「台湾の名前」で、たとえば「陳正豊」 君
仲良く勉強してました。(朝鮮総督府が、日本名を強要したと
いわれてますが、対照的ですね)
がんばれメカトラ
今回の記述者は金田です。
昨年、朝日新聞か毎日新聞に掲載されたベンチャー企業メカトラックス。
UFOキャッチャーに代表されるクレーンゲームのアームを二足歩行のロボットに
やらせて今までにないバージョンを生み出し200億円市場といわれる業界の
一割の市場を確保しようという狙いらしい、そのメカトラックスがいよいよ
年間300台を目標に動き出すという記事が西日本新聞にこのあいだ掲載されていました。このメカトラックスは元々、少人数のロボット研究の技術屋さんチーム。ゲーム業界で儲けたお金を事故や病気等で四肢に障害をもった人たち
へサイボーグのような義手を提供できるよう研究したいというのが主旨との事。
儲けたお金の使い方としてのビジョンがすばらいい会社だったので、個人的に
これからも注目したい会社さんでした。
会社名の由来
売買営業部 小坂元です。
色々な会社名がありますが、どうしてその会社名になったか簡単に
ご紹介します。
ブリジストンは石橋社長の石(ブリッジ)橋(ストーン)はあまりにも有
名ですが、サントリーの鳥井信冶郎初代社長は、皆から鳥居さん、
トリイサン、と呼ばれサントリーとなったそうです?
家電のシャープは、戦前にシャープペンシルを作っていたので
シャープです。
世界100ケ国以上に輸出されている、カッターナイフの
オルファー社は、海外のメーカーのようですが、日本の会社です。
刃をポキポキ折るので「折る刃(オルハ)」、ハは海外で発音しない
所もあるのでオルファー社になりました。
居酒屋の「つぼ八」は、1号店が広さ8坪でした。
うどんの「牧のうどん」は、1号店が前原の大字牧(おおあざまき)
で、地名より名前が決まったようです。
最近では、福岡にある投資ファンド、ドーガン、インベストメンツ。
ドーガン、アドバイザーは、九州弁の(どがんですか)や(どぎゃんで
すか)が由来だそうです。
結構面白いものですね。
街角探索
こんにちは、売買営業部の池本です。
先日、早良区原の売マンション【チェリーハイツ原】のオープンハウスをおこなった時に、手配りチラシを玄関から投函中に発見したのが、愛嬌のある猿のお面です。【自然と仕事に意欲が湧きました】
思い出したのは地下鉄藤崎駅入り口の猿田彦神社です。毎年2月の最初の庚猿(かのえさる)の日になると猿のお面を買い求める人でごった返してますよねぇ~。
当然神社には入りきれないので、行列は弥生のほうまで続いてまさしく人が人を呼ぶという確立が高い宝くじ売り場のイメージですよ。
本当の意味は厄除け祈願のため午前5:00から猿のお面を求めて並んでいるのですが、猿は神の使いとする信仰もあるようで、個人的には何かほのぼのとしたものを感じてます。
お時間が許される読者はぜひ一度祈願へ行かれてみてください。並ぶ時間が無い方でも一度はあの行列は必見の価値があると思います。
では次回の街角探索をお楽しみに、ありがとうございました。
東京
たかせです。
先月東京に出張に行きました。
久振りの東京でしたが、観光と違い仕事なので特に感動することもなく、お客様を訪問してお話を伺うと言う2日間でしたが、1つだけビックリしたことがあります。それは泉ガーデンタワーのエレベーターの大きさでした。
今まで経験したエレベーターは9人乗りの表示があるのに狭く本当に9人乗りなのって言うかんじの広さですよね。
それが、泉ガーデンタワーのエレベーターは6帖くらいの広さがあるんですよ。{何人乗りって言う表示は気付きませんでした。}
6帖って書いてますが、想像してください。和室の6帖がエレベーターなんです。
これにはビックリしました。それが4基。すごいですね。
この話を後日来福された、東京のお客さんに話したら、ご存知でして、「8帖くらいある」と言われましたが、私は8帖はないやろと思ったんですが、そこはお客さんなので「そうですか8帖ですかねぇ」と答えましたが納得は出来てません。
それでこの話を社内でしたら、「東京の畳は狭いから8帖と言われたんじゃないですか」というこの話に納得でした。
以上東京はすごいでした。
レジ系のリーシングに弱いPM会社はレントロールの夢を見るか?
稲尾さんが亡くなった!
こんにちわ!売買営業部の渋田です。
子供のころの思い出で少しでも昭和一桁のひとりの日本人
が過ごした時代を知って戴きたいと、かなりアイマイな思い出話を書いてましたが、
今日は、ズット現代に近い昭和20~30年代の大事なエポックだった”西鉄ライオンズ”栄光時代の立役者稲尾和久氏が亡くなったので、どうしてもこの頃の思い出を書かせて下さい。
1.大学生の頃の最優良のアルバイトは、今は無い「平和台 球場」の場内監視でした。当時の「平和台球場」は外野側は石垣だったのでよじ登って入ろうとする無銭入場者が多かったのです。
2.3番打者中西が昭和27年、2番打者豊田が昭和28年そしてエースピッチャー稲尾が昭和31年の入団で、私は昭和27年に社会人になったので同世代の親近感がありました。
3.西鉄ライオンズ黄金時代は、東京勤務でしたが、社内に仲間が20人ぐらいいて、ベースボールマガジン社発行の”西鉄ライオンズ”を回し読みしていました。
4.あの有名な逆転優勝のときは、後楽園球場とお座敷テレビで、7戦全部を「巨人ファン」に囲まれて応援しました。
1番センター高倉・背番号25、2番ショート豊田・背番号7、3番サード中西・背番号6、、4番ライト大下・背番号3、5番レフト関口・背番号27、6番ファースト河野・背番号9、7番ショート仰木・背番号5、8番キャッチャー和田・背番号12そして最後にピッチャー稲尾・背番号24というアナウンスを聞いたときは、1塁側も3塁側も大声援で沸いてました。
5.大投手稲尾時代には、主としてテレビで声援を送るだkでしたが、あの温厚な稲尾さんにお目にかかってお喋りが出来たのは東京で定年を終えたあと暫らくして福岡へ帰るときの羽田空港待合室でと某他チームの野球選手の野球殿堂入り祝賀会、そして私どもの”家主様感謝パーティが最後でした。
訃報を聞いた時は、年令違うもののなんとなく青春が消えたような気がしたので、失礼いたしました。