売買営業部の渋田です。
私が、広東(広州)に居た時、昭和6年に”満州事変”昭和7年には”上海事変”と言われる日本軍と中国軍の紛争がありました。
さすがに、その時は離れているとはいえ、日本人は危険だということで、急遽、船で内地(当時日本本土のことを、そう言ってました)へ引き揚げました。たしか、満州事変の時が、大阪商船の”高砂丸”で、上海事変の時が、日本郵船の”秩父丸”だったと思います。
どちらの時だったか覚えてませんが、福岡市の春吉の借家に一時入っているあいだに子供たち4人とも”ハシカ”に罹って親は大変だったそうです。
事変も落ち着いて、また広東に戻る途中、父に連れられて上海陸戦隊の本部前で水兵さんが銃を持って緊張した面持ちで立ってられたのと、本部建物に沢山の銃痕があったのは
未だに、思い出します。
併せて、父が”真っ白い征服を着て真っ白いゲートルを巻いて撃ち合いをしたので、海軍陸戦隊は陸軍に較べて多くの犠牲者が出た。残念なことだったとはなしてくれたことも。
たしか、このあとは、戦闘服が変わったはずです。
後年、イラクが、クエートに侵略したとき、在留日本人が、オーストラリアの飛行機に助けられて、日本に引き揚げて帰りましたが、自分の2度の引き揚げを思い出すとともに、善し悪しは別として、私たちは、日本の船でスムースに内地に引き揚げてこられたナと思い出します。