2007年 12月 4日 火曜日
むかしのはなし3です。
この記事を書いた人
売買営業部の渋田です。
中休みがありましたが、昭和一桁の話を続けます。
小さい頃の記憶なので記憶違いが有るかと思いますが
ご了承下さい。
さて、大日本帝国砲艦「嵯峨」に守られていた帝国臣民は
何をしていたのかは、戦後就職して東京で当時の小父さん
小母さんに10数年ぶりにお会いして、当時の広東の役割
が解りました。その方々は、外務省の総領事、横浜正金銀行
支店長(戦前日本唯一の外国為替銀行・後の東京銀行)、
台湾銀行支店長(当時台湾の日銀的存在で、紙幣発行銀行でした)、三井物産支店長、王子製紙支店長、日本郵船支店長などで
東京では、日本リーダースダイジェスト社長、東洋レーヨン社長など錚々たる方々になっておられました。
でも、人口はおそらく僅かだったと思われます。というのは、
唯一の学校「広東日本人小学校」は、2学年1教室で先生も
3人だったと記憶してます。勿論その中には「台湾人」も大日本帝国臣民として「台湾の名前」で、たとえば「陳正豊」 君
仲良く勉強してました。(朝鮮総督府が、日本名を強要したと
いわれてますが、対照的ですね)